シリーズ〜私をこの世界に連れ込んだ(?)先生達5

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私はその後、M大に進みました。

これといって、ツテやコネがあったわけではなく、単純に入れる大学はどこ?という感じだったわけですが、あまり知られてはいませんが、当時、私立の音楽大学の中で一番学費が安かったのです。(現在はとんでもないぐらい高い)

最も安かったのは記憶が正しければ、本当は日本大学の音楽学部。

ここはさらに安かったのですが、音楽大学ではないというところがやや不安だったので、その次に安い音楽大学を選んだわけです。

・・・果たしてこの大学に選んで将来よかったと思える時が来るのだろうか?・・・

という漠然とした気持ちがありました。

・・・この大学で将来のお嫁さんでも見つかるといいなあ・・・

なーんていう淡い期待もありましたが(当然のごとくその儚い希望は、彼女すらもできないという絶望とともに卒業となる)

さて、大学でいちばんの興味は師事するピアノの先生です。

一体誰になるのだろうか・・・という不安でしたが・・・

まあ、このHPをその先生が見ていないことを願いますが(汗)

比較的若い先生でした。

ただまあ・・・経歴は立派でした。

しかし、経歴が立派だから、いいことづくめなのかというと・・・

残念ながら私には全く魅力は感じませんでした。

この世界、経歴なんて何の判断材料にもなりません。

もちろんどこぞの大学に多く入れているということは参考になると思います。

しかし大学に入ることが目標ではないとしたら・・・もしくは大学に入った後でどういう先生に就くべきなのかというと・・・。

この辺りは、この業界人でないとわからないことが多々あります。

なんども言いますが・・・経歴は私に言わせれば、先生の選考には何の役にも立ちません・・・日本人の場合はですが・・・。

話を戻しますが、私はついた先生のレッスンに満足できずに、外部の先生を友人たちに紹介してもらって、色々とレッスンに通っていました。

中にはかなり有名な先生もいました。

まあそれなりに勉強にはなったのかもしれませんが・・・

しかし、結局私がその後、強烈なインパクトを得た先生が一人のみいました。

その話の前に・・・。

当時私は外部の先生のレッスンよりも他の魅力的なことに熱中していました。

それは・・・ライブラリー室にある膨大なレコードです。

もう朝から夕方まで暇な時にはレコード室にこもっていろんな人の演奏を聴いていました。

・・・気がついてみると・・・私が気に入ったピアニストはどの演奏者も既に死んでしまった人がほとんどでした。

ラフマニノフ、モイセイビッチ、リパッティ、コルトー、ルービンシュタイン、パハマン、グールド、ローゼンタール、ホロヴィッツ(ただし、かろうじて生きていましたが)・・・。

あまり知られていないとは思いますが、作曲家兼ピアニスト、もしくは自作自演のピアニストのレコードは意外と残っていて、ラフマニノフはもちろん、プロコフィエフ、ブゾーニなどの録音もなかなかの名演奏でした。

youtubeなどで調べてみるといいですよ。

中にはスクリャービンやメトネルの自作自演も結構残っています。

さて、この時代の録音を聴いて、外部の先生のレッスンより、こっちの人たちの演奏の方がはるかに魅力だなあ・・・。

そんなふうに思っていた頃でした。

まあ・・・残念な言い方ですが・・・音楽に関して口から出てくる内容は勉強にはなったのですが・・・しかし先生の実演奏に関しては・・・誰も魅力を感じなかった。

これが本音です。

その後、私が大学と交渉して、誰でもいいから・・・という条件で師事している先生の変更願いを出したのですが、その先生が・・・。

Janos ,Cegledyという人でした。

当然、業界でこのピアニストを知る人はほとんどいないでしょう(あ、失礼、ツェグちゃん)

げ!外人かよ・・・。

当時はその程度しか思わなかったのですが・・・。

この先生の演奏を聴いた時・・・

しかもその先生の最初に弾いたマズルカが・・・

ああ・・・今でも忘れることができない・・・

今まで聞いてきたレコードのピアニスト、そのままの演奏がそこにあったのです。

私はこの時から、この大学に来たことがどんなにラッキーだったかを知りました。

当時、M大はバブル時代ということもあって、かなり多くの外国人講師を呼んでいました。

ここから私の人生は変わりました。

続く・・・。