大晦日の夜は恒例で薬王院に出かけました。
本来なら修行という意味でケーブルカーを使わずに高尾山駅から歩いて寺院に行くべきなのですが・・・いや、もう掃除でへたっていますし(汗)時間も間に合わないのでいつものごとく、ケーブルカーです。
薬王院に行くといつもそう思うのですが、おおよそ初詣、というめでたい雰囲気ではなく、とにかく”修行をしなさい”というメッセージを受け取ります。
住職達も見ていると修行僧、というイメージが迫ってきます。
お護摩祈願、というんですがいわゆる、神社のお祓いみたいなものです。
しかし、神社とは違って、約40分間、”正座”させられます。
いや別に正座しなくてもいいんですが、どう考えても飯綱権現様(薬王院の神)の前であぐらはかけません(汗)
お護摩が始まると、目の前で火が焚かれるわけです。
ここで、人間の”貪瞋痴”を飯綱権現様に預けて下山するわけです。
しかし、なかなか下山しても自分の”貪瞋痴”は減らせません。
自分がそうなんだから、皆さんもそうでしょ(笑)
ご利益(ごりやく)といってもあぐらかいて何もしなくても、もらえるということはなくて、本当に自分が努力しないと、ご利益はやってこないです。
そこをいつも悟られます。
下山の帰り際に、ラジオを聴きながら帰ったのですが、昔、有森裕子というマラソン選手が(若い連中は知らない・汗)「自分で自分を褒めたい」と、オリンピックで3位になった時に言っていましたが、あれはなかなか言える言葉ではないです。
相当本人自身が苦労して、めいいっぱい頑張ったのでしょう。
これ以上は無理、というところまでやって、それでも3位だったけれども、十分やった、という認識があった、ということかなと。
でも世界で3位になったんだからそりゃすごいですよ。
あなたは「これ以上努力はできない」という限界までやったこと、ありますか?
はい、私もそこまで最近はやっていないです(汗)。
「やってます」とか「これ以上できません」とか「私にはできません」とか・・・。
だったら・・・
一度高尾山駅から歩いて(!)薬王院まで登って、お護摩祈願で飯綱権現様の目を見るといいです。
そういう心を持っていると、権現様の目が怖く感じます(汗)
「それでやったというのか?」と。
努力は惜しんではいけません。
人より下手だと思うのなら2倍努力。
それでも足りなければ3〜5倍努力。
あの人が1時間練習しているのだったら5時間(汗)
でもそれぐらい努力すれば最終的には確かに”自分で自分を褒める”ことができるんじゃないですかね?
集中力を欠く長い練習だったら意味がないけど、気持ちとしては必要な要素です。
もちろんそこまで自分はレベルを求めていないのであれば、そんな死にもの狂いの努力はいらないのですが・・・。
結局自分が求めるものの大きさによって努力の量が決まってくるのだと思います。
叶えたい願い事がやすやすと簡単に手に入るわけないじゃないですか。
なんでもそうですが、それなりの大きい業績を残した人は”天才”じゃなくてそれなりの”努力家”で日夜、時間を割いていた人だと思いますよ。
別に世界で3位になれ!っていうんじゃないんだから(笑)大概のことはできます。
大事なことは・・・その過程が楽しめるかどうか。
そりゃ誰だって苦しい。
しかしそれに耐えられるか?そしてそれを苦行としてではなく、当然の毎日の習慣と思って挑戦できるか?
私も頑張らないといけません。
本当に最近は自分で自分を・・・蔑むような努力しかしてないですね(汗)
次回の大晦日は修行のために自宅から歩いて薬王院に行くか(笑)